アルヴィン・エイリー

Choreorgrapher
米国

Portrait of Alvin Ailey

アルヴィン・エイリーは、1931年1月5日、テキサス州ロジャースで生まれます。アメリカ南部の田舎町での生活体験が、後に彼の最も印象的な作品のインスピレーションになります。ロサンゼルスのバレエ・リュス・ド・モンテカルロやキャサリン・ダンハム・ダンスカンパニーの公演でダンスに出会い、友人のカルメン・デ・ラバレードの紹介でレスター・ホートンのクラスに参加したことによって、彼の正式なダンスの訓練が始まります。アメリカ初のさまざまな人種が混在するダンスカンパニーを創設したホートンは、プロダンサーとしてのキャリアをスタートさせたエイリーの良きメンターとなります。1953年にホートンがこの世を去ると、エイリーはレスター・ホートン・ダンス・シアターのディレクターとなり、自身の作品の振付を始めます。1950年代から60年代にかけて、エイリーは『House of Flowers』や『Jamaica』を初めとする4作のブロードウェイショーに出演します。

1958年、エイリーは、アルヴィン・エイリー・アメリカン・ダンス・シアターを設立し、アメリカのモダンダンスの伝統を豊かにし、アフリカ系アメリカ人の文化的経験の独自性を守ることに打ち込むダンスカンパニーを立ち上げる、という自らのビジョンを実行に移します。エイリーはさらに、1969年にアルヴィン・エイリー・アメリカン・ダンスセンター (現在のエイリー・スクール) を設立。1974年にはアルヴィン・エイリー・レパートリー・アンサンブル (現在のエイリーII) を結成します。エイリーは、教育における芸術を推進する、特に恵まれない地域社会に恩恵をもたらすプログラムのパイオニアでした。その生涯を通じて、エイリーは、1988年にアメリカ文化への並外れた貢献が認められたことで贈られたケネディ・センター名誉賞をはじめとして、数々の栄誉に輝いています。2014年、アメリカにおける公民権とダンスへの貢献と献身が認められ、死後、アメリカの民間人として最高の栄誉となる大統領自由勲章を受勲しています。 1989年12月1日にエイリーが死去すると、ニューヨーク・タイムズ紙は、「たとえエイリーを直に知っていなくても、彼の人間性、熱意、高揚感、そして人種の壁を超えた連帯感を求める彼の勇気ある姿勢に誰もが胸を打たれた」と追悼しました。